2006年08月07日

『一字下げ』

 合宿での出来事。 久しぶりに会った先輩から指摘される。 
 事務所で参加したプロジェクト「Fiber City」(新建築6月号特集記事)について、彼(経済学の先生)の意見を聞こうと思ったのだが、内容以前の問題として「なんで『一字下げ』じゃないの?」と指摘されたのであった。 日本語のルールだよ、と。 
 確かに、段落の最初は一字下げましょうと、小学校で習った覚えはあるが、普段ほとんど気にしていなかった。 特集記事の文章そのものは、プロジェクトを統括していた師匠が最終的にまとめたものでこちらに文責はなく、また、「『一字下げ』をしない」というルール設定も編集部が行ったものである。 責任回避するわけではないが、僕自身ではいかんともしがたい問題である。 
 少し不思議に思ったので、手元にある建築系の雑誌を一通り確認する。

 「一字下げ」していない雑誌: 新建築、商店建築、日本建築学会・建築雑誌
 「一字下げ」している雑誌: Casa BRUTUS、建築知識、日経アーキテクチュア、LANDSCAPE DESIGN
 おおむね「一字下げ」している雑誌: 季刊ディテール
 最初の段落「一字下げ」なし、以降の段落「一字下げ」あり: GA JAPAN

 いやはや、てんでばらばら。 驚くのは、基本的に学者の集まりである日本建築学会発行の月刊誌・建築雑誌が、頑なに「一字下げ」していないことであろうか。 これも気になったのでバックナンバーを確認したところ、なんと2005年までは「一字下げ」をしていて、今年になってから「一字下げ」をやめたようである。 なんてタイムリーなんだろう。 
 ちなみに、新建築の1980年12月の臨時増刊号が手元にあったので、これも確認したところ「一字下げ」は見られなかった。 要するに新建築は25年前にはもう既に「一字下げ」を放棄していたのである。

 日本語のルールというよりも、デザインの問題と考えられなくもない。
 また、ルールそのものは、時代とともに変わっていくものと割り切るべき問題なのかも知れない。 絶対王政の社会ならともかく、大衆社会でのルールは常に変動していくものと捉えた方が良いと思う。
 いずれにしても、予想以上に面白いテーマであった。

投稿者 Kohei_Kashimoto : 2006/08/07 Mon 15:57

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コメント

 どうも、「一字下げ」君です。とても面白い調査レポートで勉強になりました。特に、日本建築学会・建築雑誌の決断は興味深いですね。今度の学会のときにでも、総会でなぜか質問してください。ハハハ。変更の理由を聞きたいものです。
 思うらく、大衆社会でのルールは全体としては多数決で決まっていくものですが、各々の主体としては変更の理由があるはずです。それがないと、全体主義になります。大げさですが、そういうことだと思いませんか?ではまたね。

投稿者  彼(経済学の先生)  : 2006年08月10日 22:25

おぉっ、さっすが先輩。深いなぁ。 わかったような、わかんないような。 
ぜんたい-しゅぎ 【全体主義】
〔totalitarianism〕個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、全体の成長・発展のために行われなければならないという思想または体制。そこでは、国家・民族が優先し、個人の自由・権利が無視される。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
 んー、なんだろう、「多様」がいいんじゃないのかなー。「一字下げ」はもちろん美しいし、でも「一字下げ」じゃなくても美しいこともあるし。 本質的には、視覚的な読みやすさを求めていった結果、「一字下げ」というルールが長い時間をかけてなぁんとなく出来てきたのだろうと思うのですが。
 僕の感覚ではブラウザを通して読む文字って5行くらいが限界で、それ以上つらなりそうな時は必要なくても段落変えて、かつ、1行あけてることが僕は多いです。また、知り合いの小説家はメールの文章を全て1行おきに書いていて、最初なんじゃこりゃと思ったのですが、実に読みやすかった。ラインハイト line-height の既定値設定の問題なのですが、今のコンピューターってどうも日本語向けではないような。
 学会の建築雑誌が「一字下げ」をやめた理由は全く不明です。見開きの論文とか読みにくいし。新建築は短文が多いからそんなには気になりません。
 でも、多数決によって能動的に決める社会的ルールの話と、個々がそれぞれ自由になんとなく選択していった結果ふと気がつくと、あれ「一字下げ」って何?っていう感じの、なぁんとなく社会で共有される規範の話と、分けて考えた方が良いような。「一字下げ」ルールが罰則規定付きの法律になって国会で承認されたら…、引越します。いえ、「一字下げ」嫌いじゃないんですよ、でも押し付けられるのはちょっと。
 話は戻って大衆社会ですが、昔、イギリス植民地時代のシンガポールの中国人街(ショップハウス)の街並みと、現代のシンガポール・ニュータウンの街並み景観について比較分析・考察した時、この問題にいきついちゃいまして。ある絶対的なルールの中での個々の欲望に基づく差異化は全体としての美しさや豊かさにつながるけど、現代的な社会の枠組みでそれを求めようとするとテーマ・物語が必要で、でもそれって長続きしないよ、ってな内容です。近いうちに論文アップしますので、乞うご期待。

投稿者  KK  : 2006年08月11日 01:09

 長い再コメントをありがとう。とくに全体主義について鋭い突っ込みをありがとう。私も筆が走りすぎましたね。もうちょっと丁寧に書くまで、その部分は取り下げます。失礼。
 『多数決によって能動的に決める社会的ルールの話と、個々がそれぞれ自由になんとなく選択していった結果ふと気がつくと、あれ「一字下げ」って何?っていう感じの、なぁんとなく社会で共有される規範の話と、分けて考えた方が良いような。』と仰っていますね。私はYes/Noの曖昧な気持ちです。
 ご存知かもしれませんが、黒人地域、イタリア人街などの住み分けは、個々人のわずか選好の差による「自由でなんとなくの選択」によって起きることを、トーマス・シェリング(ノーベル経済学賞)がMicromotives and Macrobehaviorという名著で分析しています。これを借りると、いまは「一字下げ」派と「一字下げない」派で住み分けがおきているようですね。さて、私は個人個人が主体的に選ぶ活動(文筆活動を含む)にはそれなりに理由が必要だと思います。一字下げするのは、文章に段落を明示するという役割があります。一行空けとは補完的なものだというのが私の考えです。
 次に、ある集団があってその代表となる雑誌があるとすると、やはり雑誌がなぜ一字下げをしたのか理由は説明される必要があると思います。普通はそういう目的のために編集後記があるんだと思います。ということで、文筆活動は能動的な活動であり、ですから、その主体には文筆ルールの理由を明示的に持つ必要があり、主体が集団であってもそれは変わらない、というのが私の意見です。「個々のなんとなくの選択」ではないと思っています。編集者というプロが関わるとなおさらです。
 ちょっと話を転じますが、皆がこうするから私もこうするというタイプのルールがあります。自動車の右側通行は典型例です。突然、ある自治体だけが左側通行にすると摩擦が起きますよね。エレベーターでどちら側を歩くか(停まるか)というのも同じでしょう。私が「一字下げしない派」に感じているのは、そういう摩擦と似ています。ちょっと違うのは、「一字下げ」には段落を行間に関わらず、明示するという明確な役割があることです。行間空けだけに頼るのは危ういような気がしています。
 関東では右側通行、関西では左側通行だったら運転辛いですよね。右側通行はたぶん法律で決まってません?だから、国会で「一字下げ」を議論するのも程度問題だと思いますよ。まぁ議論するくらいならいいんじゃない?国会で議論したら、海外逃亡する?ヨーロッパでの自国言語の保護体制って日本以上のような気がするんだけど、どこに逃げる?

投稿者  「一字下げ」君  : 2006年08月12日 08:27

まさか、「一字下げ」がここまでの広がりを見せるとは思ってもいなかった。。 ビックリ。 我々が必要以上に深読みしているだけなのか。 あるいは、やはり奥の深い問題だったということでしょうか。 実際、ちゃんと書こうとすると、結構、文章量が必要になってきますし。 
というわけで、本日は「一字下げない」ルールにて。


おかげさまで、だいぶ論点がクリアになってきたように思っております。 ここで、いったん自分なりにまとめてみます。 
   議論の対象1: 書き言葉の書き方。 
   議論の対象2: 社会的ルールのあり方。
「一字下げ」・「日本語のルール」の話を、上の2つに分解して考えると、よりクリアになりそうな気がするので、いったん分けてみます。 
 
 
■■対象1: 書き言葉の書き方。

よく言われる、「書くもの」と「書かれるもの」という視点から「書き言葉」を捉えると、
 1.「書くもの」筆、万年筆、鉛筆、ボールペン、など。 「書かれるもの」紙など。 
 2.「書くもの」キーボード。 「書かれるもの」モニター。 
の2つのグループに大きく分けれそうです。 
これまた、よく言われる、「文章を書く目的は、他人に読んでもらうことだ。」という言説にならうと、「書かれるもの」の、1.紙など。2、モニター。に着目するべきかも知れません。 人間の目からすると、1.反射光を見ているのか、2.発光体を見ているのか、という問題になります。 


■モニターで読む文章について。
この『一字下げ』ディスカッションの中で、僕の頭の中でまとまってきた仮説は、「『書き言葉(文章)』をモニターで見る場合、『一字下げ』よりも『一行空け』の方が見やすいのではないか?有効なのではないか?』というものです。 ためしに、日経、毎日、読売、朝日、産経と新聞各社のサイトの記事を見てみましたが、みな『一字下げ』『一行空け』併用です。 各社が独自に判断したのか業界団体で取り決めたのかはわかりませんが、これは『一字下げ』だけでは読みづらいから、段落ごとに『一行空け』ようという判断が働いたものと考えられます。 
 
で、段落ごとに『一行空け』てしまうんだったら、『一字下げ』ても下げなくても、見やすさに大きな違いはないと考えるのもごく自然な発想だと思います。人によっては、左側がガタガタせずにピシッとまっすぐになるので、『一字下げ』ない方が美しく感じるかも知れません。 日常やりとりしているメールにしても、イン・アウト関係なく、『一字下げ』なし『一行空け』ルールが適用されているケースが非常に多いです。
 
文章を読む行為の土俵が、紙(反射光)からモニター(発光体)へと少しづつその割合を増やしている中で、『一字下げ』ルールが徐々に縮小し、『一行空け』ルールが徐々にシェアを広げつつあると考えます。
 
■紙(など)で読む文章について。 
と同時に、雑誌などの紙媒体にのる文章は、やっぱり『一字下げ』でなきゃならんだろ、と思います。 理由は、『一行空け』ないで、かつ、『一字下げ』ないと読みにくく、かと言って、『一行空け』まくると紙面がもったいないからです。 モニターの領域は無限だけど、紙の領域は有限だという媒体特性が、ここでもまた判断根拠となってます。また、ウェブニュース記事のように一行空きだらけになると、バラバラすぎてかえって読みにくいだろうとも思います。
 
実際、前述の建築系『一字下げない』雑誌で言うと、「新建築」の文章は短文が多いため、まだ耐えられるけど、日本建築学会「建築雑誌」の文章は論文などが多く、読みにくいったらありゃしない。 また、「GA JAPAN」の「最初の段落『一字下げ』なし、以降の段落『一字下げ』あり」ルールに至っては、何のためにやってるんだかまるで理解不能。中途半端なスノビズムすら感じてしまう。
確かに、編集者というプロが関わる以上、「一字下げない」理由は各雑誌社が責任持って説明する義務を負っていると、私も思います。 


■結論1: 書き言葉の書き方。
モニターで読まれる日本語の文章の書き方については、社会的コンセンサスのとれたルールが、まだ確立されていない。 しかしながら、『一行空け』という段落明示の方法が数多く観察され、今後広がっていく可能性がある。
紙などで読まれる日本語の文章において段落をかえる場合には、『一字下げ』という既に一般化されたルールがあるので、基本的には遵守するべきである。 もし、『一字下げ』ない場合で、その文章を書く主体が作家・編集者などのプロである場合は、その理由を説明する義務がある。 プロじゃない場合は、…。ま、しょうがないんじゃないかな。
 
 
 
■■議論の対象2: 社会的ルールのあり方。

こんな大それたテーマを論じるキャパは全くありませんが、少し気になってしまった個人的な疑問をいくつか。

「一字下げ」=「日本語のルールだ」と、いつ誰がどういう手続きで決めたんだろうか?
そういった出自の曖昧な、おそらく自然発生的にできたであろうルールを老若男女近所のおっちゃんおばちゃんも含め、須らく日本語の文章を書く人々は守らないといけないんだろうか? いや、そもそも守らせることなんて可能なのだろうか? 
こういうルールって時代とともに変化するのが自然なんじゃないだろうか?ついこの前までは横書きの日本語は右から左に書かれていたわけだし。
 

『私は個人個人が主体的に選ぶ活動(文筆活動を含む)にはそれなりに理由が必要だと思います。』という御意見については、微妙。それこそYes/Noです。 理由は、あった方がベターだけど、なくても誰も困らない、と思います。 プロは持つべきでしょう。文筆家、作家、編集者、研究者は、ちゃんと説明しなければならないと思います。 教育者は『一字下げ』というルールがあると学生に教えなければならないでしょう。 
 
でも近所のおっちゃんおばちゃんの日々の活動にそれなりの理由を求めてもしょうがないんじゃないかな。理由があることもあれば、ないこともあって当たり前だと思う。これって選民思想じゃなくって、全くのプラグマティズム。 トイレは何時に行くんだ、それはなぜなんだ?と問われても僕は答えられない。(答えちゃうかも知れないけど、それは極めて対処療法的。) 自分自身の行動全てについて理由を説明できる人間がいたら会ってみたい。


ま、道路の場合、ネットワークなので、右側通行から左側通行へ途中で切り替えるのは難しいから、島国ばかりが左側通行なのかも。たぶん。
エスカレーターの場合、東京行くたびに、あ、立ち停まるなら左側だと思い出して、少し面倒だけど、それはそれで関東と関西の違いを楽しむという感じでしょうか。あんまり摩擦とは思わないです。 要は、急ぐ人が急いで上り下りできるように、急いでいない一人一人が気の利いた行動を取れるかどうかだと思います。 


たぶん無意味でアホみたいなルールが多い業界に僕がいるからかも知れませんが、「ルール」と言われると反射的に「その意味は?」となっちゃいます。 「ルール遵守」が自己目的化してしまうこともものすごく危険視しています。 必要不可欠なルールは絶対遵守、どうでも良いルールは削除。そして、ルールは少ない方が良い。というのが、僕のスタンスです。 

例えば、
ルール:「自動車は右側通行」 (KK:絶対遵守)
 理由:右か左かどちらかに決めないと混乱し事故多発するから。
ルール:「自動車は車線変更する時、ウィンカーを出すこと」 (KK:絶対遵守)
 理由:後続車に知らせないと危険だから。
ルール:「斜め前を走る自動車が車線変更する時に、ウィンカーを出さずに、前に入ってきたら、追っかけること。」 (KK:基本的に遵守)
 理由:後続車に知らせないと危険だと言うことをわからせてやる必要があるから。しかしながら、あまり追っかけすぎると逆に危険になるので、ほどほどに。
ルール:「エスカレーターでの立ち位置」 (KK:郷に入りては郷に従う。)
 理由:世の中、急いでいる人も急いでない人もいるから。 
ルール:「一字下げ」 (KK:基本的に遵守)
 理由:紙媒体で読まれる時、読みやすいから。論文の時などは特に重要。 でも、見た目重視の時にはその限りではない。 


あれですね。 ルールの話する時は、個々のルールは誰が守るのかという適用範囲と、そのルールの存在理由・意義の評価をしないと始まんないですね。 生死に関わるルールならともかく、文章の書き方程度のルールが、公的主体によって決められて個々の活動を縛って罰則規定まであったりしたら不自然だと思うから、やっぱり引っ越すなぁ。 引越し先?罰則規定がなくてゴハンがおいしいところかな。

ま、そこんところはさておき、「『一字下げ』はルールだ。」という時、結局ポイントは、じゃ誰が誰をどのようにルール(支配)しているのか、というところに行き着くように思いました。

はー、また長文になってしまった。疲れたー。
社会的ルールの話は、なんかまだ全然不完全燃焼なので、またまとめ直します。

投稿者  KK  : 2006年08月14日 19:16

 お疲れ様です。「一字下げ」と「一行空け」については、99%同感です。私の問題意識は、「一行空け」はしたっていいんだが、そこでなぜ「一字下げ」をやめるのだというところにあります。どうせ一行分ロスするのだから、あと一字ロスしたっていいじゃないかと思うのです。「一字下げ」をしなくて見栄えが良いのだろうか?

 社会的ルールについても、仰ることは全てわかりますし、結論についても賛成です。罰則規定もないほうがいいです。こうやって社会の中の誰かさんが大真面目に議論することがあれば、「なんとなく」(でも、もうなんとなくではないですよね)、「公的でなく」(でも、十分公開してますよね)、判断してもいいのだと思います。個々人がどのくらい大真面目に議論するかです。「一字下げ」・「一行空け」はそれに足る素材であると思います。

 もう一点。しばしば、ルールの「起源」は暴露され、それがかなりとんでもないことが明らかにされます。しかし、貴方が仰るようにルールはその「機能」によってまず評価されるべきです。私も強く同意します。あと、他人がやっているからという理由で従うべきルールはあるのだということにも納得していただけたようですね(右側通行)。最後は、「一字下げ」はそれに足るルールかどうかです。私は、スクリーンで読ませるものは「一字下げ」+「一行空け」、紙で読ませるものは「一字下げ」というルールが良いのではないかと思います。スクリーンは「一行空け」、紙は「一字下げ」ルールに比べて、よりルールとしてシンプルではないかと思うからです。つまり、ルール①段落は「一字下げ」をする、ルール②スクリーン文書は、加えて「一行空け」をする。これが教えやすい。そう、ルールにはもう一つ基準があります。覚えやすい、教えやすいです。さらに、スクリーン文章を紙文章に変換したときに、「空いた一行」を削除するだけですみます。ワープロ用語で言うと、改行記号の二連続を、一つの改行記号に置換すればいいだけです。そういう意味でよりシンプルなrobustなルールではないでしょうか。「空いた一行」を削除したら、段落が分からなくなった、なんて悲劇じゃないですか?とすると、「頑強」という基準もあるかな。

 「保守主義」と「合理主義」というのを導入すると、前者はあまり明確な「機能的な理由」が見いだせなくても、前例としてのルールに従うという立場。後者は、前例に対して「機能的立場」から改革を進めるという風に整理できます。インターネットにより文書の世界のスピードが早くなってきたので、「なんとなく大勢が決まる」やり方に任せるのではなく、ちゃんと誰かが議論している必要があるような気がします。つまり、「合理主義」の度合いをちょっと強める必要があるってことかしら?(自問自答)これってネット民主主義?百家争鳴?ハハハ。ではでは。議論につきあってもらって有難う。これで私には頑強でシンプルな教える(=議論する)立場ができました。半年に一回ぐらいはおつきあいください。

投稿者  ひさまつ  : 2006年08月15日 08:01

はい。お疲れ様でしたー。
(まるで仕事あがり、あるいは授業終了のような空気感ですが。)
私も頭の体操になりました。 いろいろと発見もありましたし。
ありがとうございます。
ではでは。 また遊びに行きます。

投稿者  KK  : 2006年08月15日 10:32




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